追悼・縄手健「ゼノ」少年牧場理事長

去る6月6日、「ゼノ」少年牧場の縄手健理事長(同時に広島県知的障害者協会会長でもあります)が亡くなられました。翌7日の昼前、「ゼノ」診療所のスタッフからこの事実を知らされ、とるものもとりあえず、クリニックの診察終了後、当日19時からの通夜、翌6月8日13時からの「ゼノ」関係者密葬に参列してきました。

直接おつきあいしてはや11年。昨年、わたしの勤務する「ゼノ」診療所において、スタッフのことでちょっとしたごたごたがあり、昨年12月、着任10年で初めて、縄手理事長に直接仕事上進言する機会を持ちました。そしてこのときは思いもしなかったのですが、これがあなたとの今生最期の会話となりました。(忘年会で話す以外にはあまりしっかり話すことがなかったことが今も悔やまれます。わたし自身もっといろんなお話を聞きたかったです)。そのとき印象的だったのは、わたしから見れば、年も年だし、現場に対してはもう目が行き届いていないのでは??なんて思っていたのですが、そんなことはまったくなく、隅々までゼノのスタッフや現場の問題を把握していたことが思い出されます。もうすぐ80歳とは思えない屈託のない朗らかで私心のない笑顔を見て、この進言は悪いようにはならないだろうと確信したことを昨日のように思い出します。その結果、今年度の人事に対して、わたしからの愚言も考慮にいれていただきながら、最善の人事采配を振るわれ、組織の長というものの奥深さを勉強させてもらい、さすが公人は違うな~などとつくづく感心しているという状態でした。5月に肺炎で入院されたという話と同時に数日で危篤状態に陥られたと聞いた際は、奇跡の生還を信じながら、もしそうなったら、縄手理事長個人の健康のために2度目の重要な進言をしようと決意していましたが、それもかなわずほんとうに残念です。

それにしても縄手理事長!あなたが逝くにはゼノにとって、また広島県ひいては日本の福祉にとって、10年早すぎます。でも、あなたがお体を普段から大事にされていたことは、忘年会などで同席した際のお酒の飲み方ひとつとっても痛いほど知っていましただけに、「もっと体を大事にしてほしかった」なんて口が裂けても言えません。

わたしがゼノに赴任したこの10年を振り返っただけでも、利用者さんの数、職員の数、施設の数などはほぼ倍以上となっています。わたしなど時々お邪魔する人間にとっては、新しく若い職員が多くて、もうかつてのように全体を把握するのはまったく不可能です。あなたが先頭にたって、図面を描きながら緻密な計画を基に旗振りをされながら、渡辺前事務局長らを動かし、ゼノ少年牧場を発展させていく経過をわたしは端っこから常に見せられていました。悪法と言われ全国の障害者施設がその適用に躊躇した、新たな障害者福祉法にいち早く対応されたのはとくに慧眼でした。広島県庁で長く社会福祉に関われていたこともあり、社会福祉の構造や発展の歴史に造詣が深く、つねにその学識をゼノの発展に生かしておられたあなたを喪ったゼノ少年牧場は、艦長を喪ったホワイトベース(すみません、わかりにくい比喩で。でもわたしからみると自然にそう感じられるのです。ちなみホワイトベースとはあのガンダムを載せた艦載空母です)のようなものです。ホワイトベースと同様にゼノの乗組員はまだまだ若く、まだまだこれからあなたからの直接の薫陶を必要としていたのに、こんな突然の死なんて世界はまさに無常です。今後、残されたゼノの乗組員はあなただったらどうするという想像をしながら、この荒れ狂う、福祉に厳しくなりつつある現代社会のなか、大きくて未完成な空母を運行していくと思います。あなたを喪ったことで、すこし停滞し甘えていた乗組員もこの哀しみをバネに、成長し、たくましくなっていくのだと思います。

わたしもあなたとともに短い期間ながらともに働けたゼノの一医師として、今後もあなたの遺志を引き継ぎ、ゼノの発展を見守りながらできるだけのことをしていこうと思っています。ぜひ天上の世界から、今後の行く末を見守っていてください。