「ゼノ」少年牧場と縄手理事長の思い出

ワールドカップも始まりこころ高ぶる季節になりましたが、一方でこの一週間、縄手理事長を失った後遺症にわたし自身がとらわれています。

そこで、わたしの記憶のなかの縄手理事長との思い出を少し書いておこうと思います。(物忘れの激しいわたしのことですから、いま書いておかないと永遠に消え去りそうで、記憶のなかで理事長を踏みとどまらせるためにも、おそらくわたしがいましなければならないことがあるとすれば、ワールドカップに関する駄文よりこちらでしょうから)

いろいろありうまくまとまりませんので、思いつくままに書きます。

わたしが、縄手理事長を初めて拝見したのは、おそらく今から15年ほど前、わたしがまだ当時国立療養所賀茂病院(現賀茂精神医療センター)にて働き、わが恩師・岩崎学先生の下、重心障害者病棟を担当させてもらっていた関係で、岡山市で開催された、障害者大会(正式名は忘れました)に研修を兼ねて参加していたときのことです。「未来の障害者福祉の行く道」というようなタイトル(正確なタイトルは忘却の彼方です)でメインの講演の演者としてでした。

背が高く、背筋にきりりと定規が入ってるような立ち姿。日本人離れしたダブルのスーツのダンディな着こなし。一緒に参加していた重心病棟の元山指導員からにやりと笑みを浮かべながら「先生、あの人かっこいいでしょう。福山のゼノ少年牧場の理事長で、いつもダブルのスーツでびしっと決めている人なんですよ。60過ぎだけれど、若いでしょう~」なんて言われ、講演の内容よりもその凛々しい立ち姿とともに福山の「ゼノ」少年牧場という名前がわたしの頭にインプットされました。(まさかそのときは、数年後に自分がその縄手理事長から診療所の医師就任を要請されるとは思ってもいませんでした)

それから数年後、今から11年前、平成15年、前任の武南先生の医院開業に伴い、診療所の医師が空席となり、「ゼノ」少年牧場から、賀茂の元山指導員(元山先生はとにかく顔が広いんです)を通して、なんと東広島在住のわたしに声がかかったのです。福山からゆうに60キロ以上離れた東広島に住むわたしへの就任依頼というものがどういう意味をあらわしているかは、そのときおぼろげながら了解していました。(おそらく地元の医師を中心に必死に医師を探された末の要請なのだろうということは容易に想像がつきましたから)ちょうどその半年前、わたしは前任の国立賀茂病院を離れ、民間の宗近病院に赴任していたため、併任は可能となっており、「ゼノ」診療所就任のタイミングはまさにぴったりではありました。しかし、わたしも結構こだわりのある人間で、どんな施設かもわからないのに「はい!わかりました」と就任する気はまったくなく、あのダブルのスーツが似合う縄手理事長のいる「ゼノ」少年牧場というところはどんな所なんだろうというほんわかした興味のままに、平成15年9月の日曜日に「ゼノ」少年牧場への見学に出向くことにしました。そこで再会した縄手理事長は、ダブルのスーツでこそなかったものの、やはり凛々しく温和な笑顔で、こうしたフレンドリーながらも凛とした雰囲気を出せる人は少なく、ゼノ牧師の思いを実現すべくこころの炎をクールに燃やしているような印象で、いずれにせよずいぶんカリスマ性のある方だなと思いました。

当日は理事長と四方山話に花が咲いて、いまはなくなった旧ゼノ事務所において、「現代における武士とは?」みたいな葉隠れ・武士論みたいな話をさせてもらったのをおぼろげに覚えています。きけば広島大学教育学部のご卒業ということであり、学部は異なるもののわたしにとっては大先輩であり、こんなところにも親近感を持ちました。よく考えてみれば、武士論を交わした時点で、わたしに期待してくれている「ゼノ」少年牧場に対して、武士?として「ゼノ」診療所の医師就任を断ることはできるはずもなく、縄手理事長の穏やかで確かな操作性も感じながら、わたしとしては微力ながら、通勤はたいへんだけれど、ゼノ診療所に就任するしかないなという気持ちになり、帰路についた記憶はあります。(もちろんゼノ神父の志にもいたく共鳴し、少しでも力になれたらというささやかな気持ちもありました。その共鳴をあたえてくれたのも縄手理事長でした)こんなところにも通夜の際のほうし丸理事からの話にあった「つねにこころは熱く、あたまは冷たくで物事を進める」という理事長のモットーを感じさせます。

あれから、あっという間に11年が立ちました。西条~福山往復(走行距離は毎回130キロあまりです)もはや500回を数え、福山はわたしのなじみの街になりつつあります(一方でいろいろと問題も横たわる街ですが、そこを含めて福山が好きです。いつか語ってみたいですが、わたしの故郷・名古屋との共通点も多いのです)。初めての出会い以来、わたしも理事長もゼノ神父の志を継ぐ孤独なサムライとして普段は会えばあいさつはするものの、立ち話をするでもなく、たまの忘年会で話をするぐらいでした。それでも、わたしは自分の診療所における仕事ぶりを通して理事長とは交流しているぐらいの気持ちで気を張って診療にいそしんできました。わたしのような若輩から見ても、縄手理事長は圧倒的な存在感で、年齢的にも父親に近く、ゼノ少年牧場にいれば、理事長が見守っていてくれるという気がしており、安心して仕事に専念しつづけ、気がつけば月日が過ぎていきました。わたしも「ゼノ」少年牧場においてはすっかり古いほうの人間になりました。この間、年に一度縄手理事長とは、法人の忘年会(毎年参加していたわけでもありませんが)にて、なぜか必ず理事長隣の席が与えられていたので、その都度いろいろな話をさせてもらいました。内容はだいたいその時節のたわいもない話でしたが、その際に印象に残ったのが、次々に理事長に向かって挨拶に訪れるゼノ職員たちのお酒のすすめにも、おそらくお酒好きであったにも関わらず、しっかりと自制しておられたことです。わたしなどはああいう場になると飲んだもん勝ちという感じでかえって普段よりガバガバ飲む癖があるだけに「ゼノの理事長をはじめとして、公的存在になられているわけで、いつも健康に気を配られているのだな」という印象を持ちました。

わたしもあっという間にゼノでの勤務も10年を超え、この間に各施設の産業医にも就任して、職員に対してメンタルヘルスに関する講演会などもしたりして3年になりますが、昨年度の講演は「公と私を両立させる職場におけるメンタルヘルス」をテーマに選びました。それというのも、かつて武士道の話をともにした縄手理事長にわたし自身の11年前からアップデイトされた、現在進行形の武士道話の続きを聴いてもらいたかったのです。しかし、講演当日はご多忙のなか残念ながら参加いただけなかったのがいまもこころ残りではあります。こころ残りといえば、前にお話を伺い、いつかの来訪をおすすめいただいた、星がきれいだという長野の素敵な別宅にもぜひ行きたかったです。ぜひそこで、お酒をくらって未来の夢話をしながら夜を明かしてみたかったです。

この続きはぜひわたしのこれからの行動を観ていただいて、天上の世界から評価していただくようわたしも精進していきます。できればわたしも理事長のようにまでとはいかないでしょうが、いつまでもこころも姿も若く「Forever Young」な人間として、毅然と生きていきたいと思います。

縄手理事長、またいつかどこかでお会いしましょう。