君たちはどう生きるか

本作を夏休みで子どもたちの元気な声が朝からさわやかに響く一方で、日中は太陽の光が痛いほど肌を突き刺す真夏の昼下がりにT-Joy東広島にて鑑賞してきました。

 

わたしだけでなく全国民待望のスタジオジブリの長編作であり、加えて宮崎駿監督作品であり、避けて通ることのできない本作です。

 

本作のタイトルは昭和12年発売のベストセラー「君たちはどう生きるか」とまったく同じであり、ほんの5年ほど前に漫画化や再構成化されて巷でヒットしていただけに、その昭和作品のコペルくんを主人公とする物語のアニメ化なのだろうか?・・それともまったく別のオリジナル作品なのだろうか?・・・という疑問が自然に生じるわけなのですが、本作の前情報はアオサギがめいっぱい描かれている不思議なポスター以外宣伝文句やコピーがまったくと言っていいほど行われず、宮崎監督から「なんの先入観を持たずにこの作品を観て感じてほしい」とのメッセージを逆にひしひしと感じながらの修行となりました。

 

そして暗闇の映画館のなかでは素晴らしい映画体験の時間が待っていました。まず冒頭の疑問は完全に後者でした。 宮崎監督が自分のいま頭のなかにあるイメージを一筆書きのように自由闊達に描いたオリジナル・ファンタジーになっていました。

 

まず一番素晴らしいのは、やはりアニメ化された絵そのものの力であり、今回はその絵がまた一段と魅力的で、今まで宮崎監督が関わったジブリ作品のオマージュのような場面が、いちいち挙げるには多すぎるほど全編にわたって、これでもかというぐらい出てきます。 例えば真人が疎開する壮麗な屋敷も「千と千尋」で観たようなお屋敷であり、そんな屋敷に住んだことのないはずのわたしがその屋敷の絵そのものに懐かしさを感じてしまいました。ついでにわたしの大好きな「耳をすませば」のバロンの冒険の洞窟のラピスラズリ鉱石の輝きもありました。他にもまだまだ盛沢山であり、絵の力そのものがさすがの宮崎節です。

 

おそらく我々観客はそれらのシーンを観ながら、かつてのジブリ体験のタイムトラベルをするような懐かしさとデ・ジャブ感にとらわれ、「これあの映画のあの場面だよねー」とか「なんだか懐かしい感じがある」と映画館でにんまりしたりホンワカしながらの方が多かったのではないでしょうか?

 

映画の内容自体は、いつもの宮崎作品らしくさまざまなメタファーと隠されたメッセージが散りばめられているのですが、これまでの作品と異なるのは、監督はあえてさまざまなメタファーの意味を絞り切ることをせずある程度の幅を持たせ、結果物語全体がひとつの明確な方向性をとらず、観る人にとって焦点や方向性が異なり、観客それぞれのこころにさまざまな残光を残すということです。 まるでこころの中で乱反射するかのように・・・。

 

そういう意味では本作は観る人によって賛否が分かれる作品になるでしょうが、そこが宮崎監督の目指したところでしょうし、これまでの作品がある程度熟考を重ね表現したい内容に狙いを絞った熟練者の工芸品としたら,本作はまさに観る人が自由に鑑賞に浸れるものの、観る人のもつ情報や感性にかなり多くの部分をゆだねる芸術作品と言えるのかもしれません。

 

もちろんわたしのこころのなかでも本作はプリズムのように分光し、こころの内側を照射してくれています。 それらすべてを挙げることはもちろんできませんので、以下に一部印象に残った点を書き残そうと思います。

 

まずやはりタイトルとの関係です。物語の中盤で、主人公の真人が、彼のためにと母が残した単行本「君たちはどう生きるか」を読むというエピソードが出てきます。この本を読んで涙して以来、それまで反抗的で悪いこころ(学友たちからのけ者にされ自ら頭部を傷つけたり、出された食事を一言『まずいっ』ですから・・)を持っているのでは?とも見える真人のこころが清らかに浄化され大きく成長したかのように変わっていきます。 とくに継母となる夏子への態度と言葉の変革は顕著です。そして夏子が消えた「別世界」へ夏子を取り戻す勇気の旅に出かけます。つまりその単行本を読んだ前後で人格の変化というか成長が大きく見られるのです。 そうした点でこのタイトルは意外と効いています。 ついでに宮崎監督から「君たちも人生を変えてくれるような素晴らしい本に巡り合うんだよ」と言われているように感じたりしました。

 

そして真人が行く「向こう側の世界」ですが、これはもう死後の世界でもあり、現世界を下から支えている世界ともとれる世界です。わたしもいい歳になり、この世界を離れたらどんな世界が待っているのだろう?ということをときに考えたりする年頃になりましたが、宮崎監督なりの死後の世界についての諧謔的答えと暗示がこの世界では豊富に提示されています。 無数のワラワラが現生に転生するために上昇していく際にペリカンに食べられ間引かれていくシーンはまさに無数の精子が受精卵にたどり着く前に間引かれていくようですし、ペリカンたち(庶民)が王様(専制君主またはそれに類する者)の下その世界を日々支えているのは現世界とも相似しています。

 

神道的世界のオマージュもあります。男子である真人を後継者にしたいと考えている「向こう側の世界」の創造者である大伯父さんは男系にこだわるのか、真人がだめならば、夏子に男の子を産ませるための儀式のなかに誘っているかのようです。

 

そして後継者への誘いに、すでにどう生きていくかという問題に対して目覚めている真人ははっきりと拒否を示し、もうすぐ本土敗戦という歴史上初であり想像を絶する滅びが訪れる予定の穢れた現世界に戻り、他者と協力して世界を再構築していくことを目指すことを表明します。 この辺りの件(くだり)はジブリというより庵野監督のエヴァのラストにいけるシンジのこころのような世界ですが、まあ広い意味で宮崎監督からすると、庵野監督も自分の仲間(もしくは弟子みたいな)ということなんでしょう。

 

なかなか意味深なのは、作品後半に大伯父が「わたしは3日ごとに13個の穢れていない石を積み上げて世界のバランスをとってきた。この世界を引き継いでほしい」と真人に懇願するものの、真人はあっさりとその申し出を断るシーン。 ちなみに大伯父はジブリを担ってきた宮崎監督自身であり、それと同時に真人自身も宮崎監督の分身と捉えられます。 その証拠に、偶然か必然か「13」という数字は宮崎監督が監督または脚本家として関わったジブリでの長編作品の数「13」とまったく一致しており、別世界での3日は現世界での3年に相当すると勝手に仮定すると、「自分は世界のバランスをとるために3年ごとに穢れなき13個もこころを解き放つ長編作品をこの世界に向けて作ってきたんだよ」との自負もありつつ、一方で自らの分身である真人(父親が戦闘機の風防を作っている会社社長の息子という設定は、宮崎監督の伯父さんがまさにそうした戦闘機会社の社長で監督自身はその甥だったそうで、小さい頃実際に戦闘機の風防を目にする機会もあり、真人に若いころの自分を重ねているのはほぼ確定です)によって、この大伯父(監督自身)の作り上げてきた浄化された世界の永続への望みを絶たせるということは、「 もう誰も自分の後を継がなくても大丈夫。丹精にコツコツと作り上げてきた穢れなきジブリワールドだったけれど、この先ぼくがいなくなったあとは一代かぎりの終わりでいいんだよ 」ということではないでしょうか?

 

そして物語の最期を迎え、さまざまな苦難を乗り越えて、夏子とともに現世界に帰還した真人は、アオサギから「さようならー、友だちー!!」との言葉をもらい、彼との永遠の別れを迎えます。 疎開地に来たころ、まったくこころの拠り所もなく友もおらず憎々しく孤独だった真人・・。 そんな真人がいつの間にかさまざまな体験や苦悩や決意を経て、こころの友だち・同志ができていることがこの物語の一番の見どころであり、真人の人間としての成長や苦悩の克服を感じさせられます。

 

そんなこんなでついに物語は大団円を迎えますが、ラストのラストで印象的なのは、いつもジブリ作品には必ずあるあの 「 お わ り 」 がありません。これはおそらくこの物語は本作を観たことによって「おわり」といった形で完結するのではなく、本作を観た後にこそ、現実世界のなかで観客の我々自身が、作品を観ただけに終わらず、本作を観たことに影響を受けて未来に向かってどう生きていくかの続きを営んでほしいとの監督の願いではないでしょうか?

 

「 ぼくはこんな形で幼少時からの苦悩や悪いこころを乗り越えて、こころの同志を得て作品を通してこころを表現しながら生きてきたけれど、これからの未来を背負っていく君たちはどう生きていくのかな? 」という人生の命題をしっかり考えて生きていってほしい・・との監督からの励ましを含む問いかけのように感じました。 

 これらはもちろんわたし自身にも投げかけられている問いであり、これからの時間、宮崎監督からの伝言を胸にしっかり悔いのない生き方をしていかねば・・・なーんて柄にもなく思っているわたしでした。

 

いずれにせよ、再度の修行が必要な作品であることは間違いなさそうです。 宮崎監督、カラフルでイマジナリーな万華鏡的作品をありがとうございました。