待望の本作を休日の午後に広島市内の名画館「サロンシネマ」にて鑑賞してきました。 今回は久々に個人的にこだわりのあるボブディランに関わるとても長話になります。 残念ながらボブディランにあまり興味のない方は一体なにのことについて書いているのかチンプンカンプンな箇所が多々あるのでそこは飛ばしてくださいね。
さてわたしはクリニック開業以来、本ブログ「季節のささやき」において実際に映画館で体験した作品に対する所感を綴るようにしています。 そのせいか一番好きな表現形態は映画であると思われることが多いです。
ひとのこころに触れる仕事を生業にしており、日頃から人間の魂や自然の美などによるさまざまな表現や芸術を代表とするさまざまな事象を体験するよう心がけており、映画もその表現コンテンツのひとつであり、好きな表現であることは間違いなく、日々なるべく多くの映画作品を劇場体験するよう心がけているのですが、実は一番好きな表現や事象は「音楽」なのです。 ちなみに現在のところ二番目が文学、三番目が建築、四番目が漫画(アニメも含む)、五番目が山歩き( 地元の名もなき山のなかに勝手に入り密かに歩くのが好きなのです )、六番目が温泉巡りを含む旅、その次が映画、またその次が絵画・・という感じです。
「音楽」といってもさまざまな形態があります。思いつくままに挙げても、ロック、クラシック、フォーク、ブルース、ジャズ、コンテンポラリー、ポップス、歌謡曲、演歌、浪曲、雅楽・・ときりがないほどですが、どれもそれぞれの歴史や表現があります。 個人的にはわかりやすいメロディとこころに大きな吸着力のあるポップスやロックに心奪われた時期が長く「あらゆる表現は広い意味でポップかつビートを伴わなければ多くのひとのこころのドアを叩かない・・」なんて若いころには友人らと語り合っていたものです。
それでもロックのなかで10代の頃から個人的に最も熱を上げてきた洋楽三大アーティスト(三銃士?)を挙げれば迷いなく1.ビートルズ、2.バーズ、3.ボブディランです。
実はディランをロックに入れるのは本人に怒られるかもしれません。彼の音楽はフォークとかロック、コンテンポラリーというジャンルや型に収めることは不可能であり、あえて言えば、「怪しくもキラキラと流れる水銀のごとくきらめきを放つオリジナル・ソウル・ミュージック」です。
そんなディランの最初期をモチーフに制作されたのが本作であり、観に行かないわけにはいかない作品でした。
ちなみに洋楽の話がでたついでに、邦楽のフェイバリットを挙げれば、きれいに三銃士というのは難しく、さまざまなひとたちに影響を受けました。 ざっと生ライブを経験した頻度順にあげると、佐野元春、ブルーハーツ(ハイロウズ、クロマニョンズも含む)、サニーデイサービス(曾我部恵一ソロも含む)、エコーズ(辻仁成ソロも含む)、尾崎豊、くるり、つじあやの、ユニコーン(奥田民生ソロも含む)、ブランキージェットシティ(浅井健一ソロも含む)、ドラゴンアッシュ、HY、ジュン・スカイ・ウォーカーズ、RCサクセション(忌野清志郎ソロを含む)、浜田省吾、中島みゆき、さだまさし、松任谷由実、シオン、杉真理・・等々のアーティストに大きな影響を受けました・・。 すみません・・、若い方にはあまり知らない人ばかりかもしれません。なかにはすでに亡くなられているひともいますね。 このリストはあくまでコンサートに行ったひとたちだけであり、ライブには行ってなくても大きな影響を受けた方たちも五万といるのですが、挙げればキリがないので、そのライブを経験できた方たちだけに限定させてもらいました。 このなかにはもうあまり聴かなくなったひともいますが、人生の大切なときに音楽や言葉、そのライブパフォーマンスを通してそのときそのときに魂への適切な示唆やヒントを与えてもらいました。 この文章を借りて感謝の念を送らせてください。 ありがとうございました。
それにしても思えばわたしもいろいろな人のライブに飽きもせず通ったものです。 近年は仕事などに追われてライブ体験は減りました。 それでも佐野元春さんなどは今年も2回はライブ(デビュー45周年記念ツアー)に行く予定であり、佐野さん単独でもライブ体験は20回に届くほどです。
閑話休題。前置きが大変長くなり申し訳ありません。それぐらい今回のテーマはわが魂の奥のほうと関連が強いということなのです。
さて本作は、ディランが故郷ヒビング( 本当は在学していたミネソタ大学のあるミネアポリスからとすべきですが、おそらくディランの意向で修正されています。大学生だったという過去を抹消し、流離い続けたホーボーとしてのイメージを強調したかったのでしょう )からニューヨークに出てきて、まったくの「名もなき者」から「名の有る者」になるまでの物語です。 伝説となったニューポート・フォーク・フェスティバルでの大音響バンド事件がラストシーンとなります。
その音楽とともに何冊もの伝記を読み漁って来たディラン・フリークにとっては、時系列や事実関係が劇的に改変されていることは明々白々です。 例えば,ディランが映画の前半ニューヨークに着いた早々にハンチントン舞踏病で闘病生活だったウディ・ガスリーの病室での初対面でいきなり「ウディに捧げる曲」をピート・シーガー同席のもと歌い上げる場面・・、ニューポートにてスージーを泣かし会場から去らせてしまう曲は劇中では「俺じゃぁないんだ」でしたが、実際はジョーン・バエズ( その後一時期ディランの恋人になります )の皮肉たっぷりなMCの後に歌いあげる「くよくよするなよ」であった事実・・等々、事実や時系列関係に基づけばさまざまなフィクションに満ち溢れており、つっこみどころ満載の本作ですが、もちろんそんなのはまったく問題なしです。
ディラン自身、当時自分の生まれた場所以外の経歴をすべて詐称していたことはファンならば常識であり、はっきり言ってしまえば、いまに至るまで「ボブ・ディラン」という虚構(ペルソナを伴うイメージ)を強い意志をもって生きている存在と言えます。 加えて本作自体、脚本制作の段階からディラン自身が関わっているとのことですから、事実改変は本人公認なわけでこれで完全に「イッツオーライト・マ」なのです。
その改変のおかげもあり、ディランのファンでなくとも、無名の青年が抜群の才能を発揮しながら人々のこころに浸透していかに名声を勝ち得ていくか、その過程で運命的とも言えた女性( スージー・ロトロのことですが、劇中ではシルヴィーと改名されていました。本作における彼女との悲恋はディラン側からの視点のみであり、彼女から視ればおそらくさまざまな要素があるはずであり、それら片面の事実表現に対して彼女から本名の使用許可が得れなかったということなのでしょう )ともすれ違い、その心情を作曲に反映させた結果、名曲「くよくよするなよ」「俺じゃぁないんだ」「スペイン革のブーツ」( 本曲は日本の名作「木綿のハンカチーフ」の松本隆さん作詞のレベルにおいて詩のモチーフとなっています )が生まれていき、スージーとの奇跡のような共鳴( 当時家族ぐるみで共産主義に傾倒し熱心に社会問題に取り組んでいた彼女との交際がなければ「風に吹かれて」「戦争の親玉」「激しい雨」などの社会問題を含んだ名曲たちも生まれなかったのではないいでしょうか? )とすれ違い( とくに「くよくよするなよ」の歌詞に出てくる「僕は彼女にこころ(My Heart)を捧げたのだけれど、彼女はぼくの魂(My Soul)を欲しがった・・」とのくだりはふたりの関係が切ない別れに向かう必然的運命を巧みに表現しており、ディランの一世一代の詩作がこころに染みます )、そしてジョーン・バエズによる横恋慕が絡み合いながら、素晴らしい作品が生まれていくという過程が劇的に生々しく表現されていました。
そして何と言っても一番の見どころです。 この当時のディランはさぞかしセクシーで切れがあり惚れ惚れするほどカッコよかっただろう・・と想像できるのですが、それを見事に演じたティモシー・シャラメが音(すべて彼自身による実演奏であり、習得に数年要したそうです)も姿、身のこなしもリアルに表現しており、生々しく活写された結果セクシーすぎてまいりました。
当時のリアルドキュメントとして「ドント・ルック・バック」「ノー・ディレクション・ホーム」といった作品が残されており、わたしも目にしたことがあるのですが、何分にも当時の本物の映像だけに当然モノクロであり、現代の4Kカメラで色彩豊かに精細に生き生きと描かれるディランの映像と音楽は実際の映像以上にリアルであり、芸術的神話を実際に生で観ているような気分にさせられました。 いろいろな要素が本作には満載なのですが、やはりこれこそが本作の一番の醍醐味と言えるのではないいでしょうか。
またディランとファンとの共鳴と確執の歴史的舞台となったニューポート・フェスティバルの会場( 既存のビデオは白黒であり、ステージ上で淡々と歌うディランしか観れません )がカラーで舞台裏も含めて当時の雰囲気をリアルに立体的に表現されていたのがファンのひとりとしてうれしかったです。
そしてなんと言ってもラスト曲「転がる石のように」を聴衆に対して詩そのままの心境と勢いをもってノイジーなバンドをバックに大音響で演奏した後に再び登壇し、アンコールの弾き語りとして「すべては完全に終わりだ」を唄うディランの恰好良さと言ったらもうたまりません。 これを大画面のスクリーンでカラフルかつ大音響で聴けただけでもう大満足ですが、他のあらゆる場面においても劇中の場面や歌世界とのシンクロが素晴らしく、マンゴールド監督の力量と感性に圧倒されました。 最近多くなった音楽家映画のなかでも出色で出来ではないでしょうか?
また今回は弾き語りフォークからバンドを伴うロックへと変貌していく過程をフォークの先導者、ピート・シーガー(バーズの名作「ターン・ターン・ターン」の作詞作曲者です)をフューチャーして表現しましたが、マネージャーのグロスマンやビート詩人のアレン・ギンズバーグ、グリニッジ・ヴィレッジの仲間ら、そして初期の芸術的かつ思想的ミューズと言えるスージーの視点からでも切り取ることもできましたが、あえて潔くピート・シーガーとの関係に絞ったのも物語の展開をシンプルかつ明快にしたように思われました。 いつか「グリニッジ・ヴィレッジの青春」という感じでこの奥深い複雑な人間群像やディランの成長していく過程、恋愛も含む数ある出会いと別れの展開も物語化できたらなんと素晴らしいことかと思いました。
一方でこの後に妻となるサラ(なんとスージーの姉からの紹介で知り合ったそうです)との出会い、運命的なバイク事故(ビートたけしの全盛時にも似たようなバイク事故がありました)による隠遁生活、ザ・バンドとのウッドストックでの音楽生活( ここから「われ解放されたし」「マイティ・クイン」「怒りの涙」「サンタ・フェ」等々・・無数の佳曲が生まれています )などに光が当てられたら・・・なぁんて絶対不可能であろうと言える夢のイメージまでこころに沸かしてしまいました。
望みと夢想は尽きませんが、何はともあれ本作がここ東広島で上映されたら、地元の広大生をはじめとした若き「名もなき者」たちとの出会いの結果、彼らには素敵な映像&音楽体験を通して、これからの未来を生き抜いていく方向性や野望、インスピレーション(霊感)が湧くこと必定であり、ぜひともいつか上映してほしいところです。
わたしも本作に刺激されて、ディランの作品や伝記と再び向かい合う日々がしばらくは続きます。 こうしてディラン道は果てしなく続くわけですが、この先も楽しい道程になりそうで、心ゆくまでゆっくりゆったりゆるやかに探求していきたいと思います。